TOKUGAWA Famous Castle 駿府城を巡る

駿府城跡を訪れました。ここは徳川家にとっては非常に意味のある場所だと個人的には考えていて、本当に行きたかった場所の一つです。残念ながら天守閣は取り壊されているのでありませんが、巽櫓、坤櫓はご健在でした。行ってみたいと思う方是非参考にしてみてください!

駿府城全体地図

静岡市の中心部にある駿府城跡。
知らない人も多いのですが残念ながら天守閣はありません。明治政府が取り壊しを命じた為です。ここは徳川政権の権力の象徴ともいうべき場所の一つですし、最後の将軍となった15代目の慶喜公が隠居生活された場所でもあります。

家康公

天気が良くなかったので、家康公が正面からだとよくわからない・・

家康公(背中)からのショットです。凛々しいお姿がとても素敵ですね!確か身長は159cmだったかと。
でも高台にいらっしゃるので非常に大きな存在感を周囲に醸し出していました。

駿府城跡って?

家康が幼少期(幼名:竹千代)に過ごした「駿府」。当時は今川義元公が統治していました。その頃の事もありこの地にゆかりを感じていたのかもしれませんね。1585年に駿府城を築城したようです。


今川義元公の右腕・軍師である太原雪斎らから英才教育を受けた竹千代君は後には私たちが知る徳川家康公になられるのです!上写真がまさに勉強部屋だったそうです〜

ここは発掘現場です。天守閣があった跡地です。当時のまま残っていたらさぞかし立派な天守だったのでしょうね。ちょっと残念な気もしますが、歴史的には仕方がなかった出来事ですね。天守が取り壊されてしまった事は。

お土産コーナー

2023年大河ドラマ「どうする家康」とのコラボ企画の限定符!これが欲しくて駿府まで行ったと言っても過言ではありません!
ドラマでも描かれていますが、家康公は本当に部下に恵まれていたし、彼らをとても大事にしていたそうです。
現世にいる私たちも学ぶところが多いです。

東御門(ひがしごもん)・巽櫓(たつみやぐら)

東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。この門は二ノ丸堀(中堀)にかかる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多聞櫓で構成される桝形虎口です。要所に石落し、鉄砲狭間、矢狭間等を持つ堅固な守りの実践的な門で、戦国時代の面影を残しています。

巽櫓は駿府城二ノ丸の東南角に設けられた二重三階の隅櫓で、十二支で表した巽(辰巳)の方角に位置することから「巽櫓」と呼ばれました。駿府城には二ノ丸西南の角に「坤櫓」みあります。櫓は戦闘時には戦闘の拠点となり、望楼、敵への攻撃、武器の保管などの役目を持っていました。焼失後、寛永15年(1638)に再建された巽櫓は幕末の安政地震によって全壊してしまったと考えられています。現在の建物は平成元年(1989)に復元され、全国の城の櫓建築でも例の少ないL字型の平面を持っています。

坤櫓(ひつじさるやぐら)

江戸時代には、方位に干支を用いて北を「子」として時計周りに割り当てていました。坤(ひつじさる)櫓は城の中心からみて南西の方角にある為そのように呼ばれています。櫓は矢倉(蔵)とも書かれ、武器庫や戦の際の物見の役割を持つ重要な建物でした。そのため、城の四隅や御門周辺に設けられています。駿府城は、幾度となく火災や地震により建物の建て替えが行われました、坤櫓も江戸時代中期に修築工事が行われましたが、安政地震(1854年)後の状況を示す「駿府城絵図」(個人蔵)によれば、建物を再建した様子は見られず、平成に入り復元をするまで建物は存在していませんでした。石垣は一部修復を行ったものの、上端は崩落したまま本来よりも低い石垣が残っている状況でした。

本日のまとめ

駿府城跡(本丸&二ノ丸)を中心として、三ノ丸エリアには県庁、学校(小中高)や裁判所、税務署、病院、市役所などなど都市機能として重要な施設があるエリアであった事と、私は車で現地に行ったのですが、周囲を一周するのに5分かかる程の大きさでこの規模感にも驚きを感じました。先日レポートした会津鶴ヶ城とは異なり、駿府には天守閣は無いものの、圧倒的な存在感を感じました。ここは間違いなくパワースポットです、皆さんも是非一度は訪れてみてください!

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